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石井正治インドネシアのこんにゃくで解決した問題って?会社や子供の現在【世界ナゼそこに?日本人】

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【世界ナゼそこに?日本人】で石井正治さんが紹介されるので経歴を調べてみました。

石井正治さんがインドネシアで日本の食材のこんにゃくを広めて

命に関する問題を解決したそうですが一体どういう事なんでしょうか?

 

石井正治さんがインドネシアにいるワケや経歴

結婚して嫁や子供がいるのか・・・?

こんにゃくをインドネシアで広めた経緯に

解決した問題について調べてみました。

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石井正治さんがインドネシアで解決した問題

石井正治さんは日本でこんにゃくの需要が高まっていた時に

こんにゃくを食べる習慣がないインドネシアで

コンニャク芋が廃棄されている現状を見て

 

日本にインドネシアのこんにゃく芋が輸出できないかと考えて行動

 

インドネシアのこんにゃく芋を日本へ輸出する事によって

インドネシア人の雇用や収入を増やす事に成功させた人物なんですね!

 

石井正治さんのこんにゃくが現在も販売されています。

なぜ、石井正治さんがインドネシア人の雇用や収入を増やすようなことを

考えて行動していたんでしょう・・・?

 

そのワケは石井正治さんの経歴に関係がありました。

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石井正治さんのプロフィールと経歴

石井正治さんのプロフィール

名前:石井正治(いしいまさはる)

生年月日:1916年(月日不明)

享年:86歳

出身地:北海道

職業:軍人・会社経営者

出典 https://www.binchoutan.com

 

石井正治さんの経歴

大正5年に北海道で生まれた石井正治さん

釧路中学(現・湖陵高校)を卒業して徴兵検査を受けて

近衛騎兵連隊に入隊しています。

 

当時、近衛騎兵連隊って難関中の難関なので

軍人でもエリート軍人なんですね!

 

石井正治さんの若い頃は軍人になるのがエリートコースだったようで

石井正治さんの父親が凄く喜んだそうで

親孝行ができたと当時は思ったそうです。

 

1931年に勃発した満州事件から2年後に

石井正治さんは中国の広東省に出征

 

中国へ出征した後は戦争の状況から

ベトナム・タイ・シンガポール・マレーシア・インドネシアと進軍

 

インドネシアではムラボに駐留していた時に終戦となりました。

 

日本の勝利を信じていた石井正治さんは

敗戦した事を知って愕然となったそうです。

 

終戦時の軍人さんってみなさん石井正治さんと同じで

日本が負けるなんて微塵も考えてなかったでしょうし

勝利する事が当たり前と思っていたんでしょうね!

 

終戦で植民地のインドネシアは日本からオランダへと渡り

インドネシア国内では独立運動が盛んになってきていて

残留日本兵には連合国が現地人に武器を渡さないようにお達しがあったそうです。

 

日本兵は武器が欲しい現地人と

武器を現地人に渡されて困る植民地統治国の板挟み状態

 

その状況で日本への引き上げ船がきたのですが、

日本軍の武器や仲間を現地人の暴徒から守るために

インドネシアに残った石井正治さん

 

インドネシアに残ったら日本軍の残留スパイとされて投獄

およそ1年間牢屋で暮らしています。

 

以前にとばく容疑で逮捕された中国人の曽さんという人物を

石井正治さんが釈放させた事があって

釈放後も付き合いがあったそうなんですが、

 

その曽さんが牢屋に差し入れを持ってきてくれたんだそう。

石井正治さんが釈放された後にも

曽さんファミリーが援助して雑貨店を経営するようになったそうです。

 

そんな曽さんの娘さんとの縁談話が持ち上がり

結婚を決意して曽さんの娘さんと結婚したのですが、

 

結婚当時のインドネシアは

独立軍とオランダ軍が衝突していて

石井正治さんは独立軍に参加

 

独立戦争がひと段落して家族のいる家に戻ると

子供が誕生していて一家3人での暮らしが始まりました。

(中国人の奥さんとの間には子供が4人出来ています。)

 

インドネシアの日本人会会長に就任して残留日本人の帰還事業をしていましたが、

生活する為に現金収入になること全てに手を出したという石井正治さん

ゴムサンダルの製造や子供用三輪車の製造など必死だったそうです。

 

日本の鹿島貿易がインドネシアに進出してきたときに

鹿島貿易に入社して働き始めました。

 

鹿島貿易で働き始めた時期の日本では

こんにゃくの需要が凄くなって価格が上昇していました。

 

しかしインドネシアではこんにゃくを食べる習慣がなく

とれた芋が全て捨てられていたそうです。

 

インドネシアのこんにゃく芋を商談相手に見せたら

日本に輸出できることが判明

 

石井正治さんインドネシアの農地を巡ってこんにゃく芋を確保して

日本へ輸出をし始めました。

 

残留兵だった石井正治さんを受け入れてくれたインドネシアに

恩返しがしたい思いが

インドネシア人の雇用や収入増加となる目的となって

日本へのコンニャク芋輸出という事業となったようです。

 

当時は日本でこんにゃくの需要が高まっていたので

日本でも喜ばれるしインドネシア人の雇用や収入が増えると

二つの国の架け橋になる事業となったようです。

 

その後にインドネシアの国籍を取得した石井正治さん

 

インドネシアで取れたものがどんなものであっても

日本に輸出できれば自然と雇用が生まれて経済効果をもたらすという

石井正治さんの素晴らしい発想は

インドネシアへの感謝の気持ちと恩返ししたい気持ちから

生まれてきた発想なんですね!

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石井正治さんの子供や会社の現在

インドネシアの国籍を取得した石井正治さんは事業展開を拡大していきました。

 

日用品のサンダルの需要が高くなったことで

日本の企業と合弁で工場をインドネシアに建設して

インドネシア人の雇用を増やしました。

 

その後にサンダル以外にもこんにゃくや海藻などで6つの会社を設立

 

石井正治さんの会社でグループ全体の従業員数が現在6千人!

インドネシア人の雇用を大幅に増やしています。

 

石井正治さんは2002年に86歳で亡くなられています。

中国人の奥さんのクスマデリさんは石井正治さんより早く

1990年に亡くなられています。

 

二人の間には4人の子供が誕生していますが、

会社経営は長男と次男に譲って引退された石井正治さんは

亡くなられるまで日本兵の残留遺骨収集に尽力されていました。

 

現在の石井正治さんの会社は長男が経営を引き継いで

工場長には長男の息子さんが就任しているそうで

会社の経営は安定しているようです。

最後に

石井正治さんがインドネシアで解決した問題や経歴について調べてみました。

残留日本兵としてインドネシアに残って暮らした石井正治さん

中国人の奥さんとの間に4人の子供が生まれています。

 

インドネシアと日本の架け橋になろうと常に考えていた石井正治さん

日本での需要が高まったサンダルやこんにゃくといった食材を

インドネシアから輸出することで

インドネシアの雇用や現地人の収入増加をしていった人物

 

日本とインドネシアの架け橋になるという発想から

6つの会社を設立するまで事業を拡大した石井正治さん

 

現在の会社は息子さんが経営を引き継いで

工場長は息子さんの子供が就任しているそうです。

 

戦争を体験して日本国外で活躍した石井正治さん

インドネシアに恩返しがしたい一心というのが凄いですね!

 

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